大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

東京地方裁判所 昭和57年(ワ)922号 判決 1982年12月27日

原告

佐藤吉栄

原告

佐藤千恵

右両名訴訟代理人

三枝基行

被告

新日本電気健康保険組合

右代表者理事長

角田三郎

右訴訟代理人

伊集院實

主文

一  原告らの請求をいずれも棄却する。

二  訴訟費用は原告らの負担とする。

事実

第一  当事者の求めた裁判

一  請求の趣旨

1  被告は原告らに対し、各金六二六万四五九一円及び右各金員に対する昭和五七年二月二日から支払いずみまで年五分の割合による金員を支払え。

2  訴訟費用は被告の負担とする。

3  仮執行の宣言

二  請求の趣旨に対する答弁

主文同旨

第二  当事者の主張

一  請求の原因

1  (当事者)

被告は、静岡県下田市柿崎一一〇五番地に「下田荘」という名称の保養所(以下「本件保養所」という。)を所有、管理しており、原告らの長男佐藤謙光(昭和四九年三月二八日生まれ。以下「謙光」という。)は、同五七年一月一日、原告らとともに本件保養所に宿泊していた。

2  (本件事故現場の状況)

本件保養所の一階にある食堂(以下「本件食堂」という。)南側部分は、芝生の庭に面しており、右部分には床上約1.8メートルの位置に鴨居、床と同一平面に敷居があつて、右鴨居と敷居の間に幅約八五センチメートルの透明な桟のない一枚ガラスを使用したガラス戸が一〇枚はめ込まれて、部屋の内外を仕切つている。また、右食堂内には、食事用のテーブルと椅子が常時置かれ、更に右ガラス戸から六メートル余り離れた位置には、冷水器が設置されている(以上の本件食堂の状況については、別紙図面参照)。

3  (本件事故の発生)

謙光は、昭和五七年一月一日午後一時一六分、本件食堂内の別紙図面記載の右冷水器付近「謙光の位置」において、前記ガラス戸を通して同人の父親である原告佐藤吉栄(以下「原告吉栄」という。)が前記庭の同図面記載「原告吉栄の位置」に立つているのを認め、同人のそばへ行くため本件食堂内の前記テーブル及び椅子の間を通つて右ガラス戸に向かつて走り寄つた。

当時、右ガラス戸は閉じた状態になつていたが、透明ガラスを通して前記庭を見通すことができたので、謙光は右ガラス戸が開放されているものと信じてそのまま走行を続けたため、同図面記載の斜線部分のガラス戸(以下「本件ガラス戸」といい、これを含む前記一〇枚のガラス戸を総称するときは、「本件ガラス戸等」という。)に激突した。その結果、本件ガラス戸のガラスが大破し、同人は右ガラスの破片により右股動静脈を切断され、出血多量のため同日午後一時四五分死亡した(以下「本件事故」という。)。

4  (本件ガラス戸等の設置又は保存の瑕疵)

一般に、透明な一枚ガラスを使用したガラス戸は、戸が閉まつた状態になつているときでも、人をしてそれが開いているかのように見誤らせがちなものであり、現に本件保養所においても本件事故以前に本件ガラス戸等に衝突する利用客が相当数いたのである。そして、本件保養所のような施設は、一般の大人に比べて事理識別能力の劣る児童や幼児も多数宿泊、休養するから、同保養所の占有者たる被告は、右ガラス戸を設置するについては、これにテープを貼るなどしてガラスの存在を明示し、もつて利用客たる児童や幼児らがガラスに衝突することのないよう配慮する必要があつた。しかるに本件ガラス戸等には、本件事故当時、右のような表示措置が全く施されていなかつたのであるから、その設置又は保存に瑕疵があつたというべきである。

<以下、事実省略>

理由

一請求の原因1、2の事実及び同3の事実のうち本件事故が発生したこと自体は、いずれも当事者間に争いがない。

そこで、本件事故の原因及び態様について判断するに、<証拠>によると、謙光を含む原告ら家族四人は、昭和五六年一二月三一日から本件保養所の三階の一室に宿泊し、翌日昼すぎころ二階の卓球室で卓球に興じたが、謙光が喉の渇きを訴えたため、原告吉栄は謙光に本件食堂で冷却水を飲ませようと考え、午後一時ころ同人を伴つて一階の同食堂に降りたこと、原告吉栄と謙光が本件食堂に入つた当時、同所は無人の状態で、そこに置かれた椅子はすべてテーブルの下にしまい込まれていたこと、原告吉栄は謙光を冷水器の在る場所(別紙図面に「謙光の位置」の記載がある部分)に連れて行き、同人に対し、水を飲み終えたら三階の部屋に戻るよう言い残し、自らは本件食堂を横切り、施錠されていた本件ガラス戸を開けて、スリッパを履いたまま庭に降り立ち、右ガラス戸を閉じた後別紙図面に「原告吉栄の位置」と記載された辺りから景色を眺めていたこと、この間、原告吉栄は、謙光が冷水器から水を飲んでいるのを現認した外は、同人の動静に全く関心を払つていなかつたが、突然背後で「ガシャン」という音がしたので振り返つたところ、本件事故が発生していたことが認められ、他方、証人森賢司の証言によると、右事故当時本件ガラス戸等にはめ込まれていた透明ガラスの厚さは五ミリメートルであつたことが認められる。

右の認定事実に当事者間に争いがない事実を総合すれば、謙光は右冷水器から水を飲んだ後、本件食堂の南側部分にはめ込まれた本件ガラス戸等越しに外の庭に立つている原告吉栄の姿を認め、同原告のそばへ行くため、本件ガラス戸に向つて相当な勢いで突進したものであり、その際、謙光は右ガラス戸が閉まつていたにも拘わらず、透明ガラスを通じて外の景色を見通すことができたため、右ガラス戸が開いているものと誤信し、そのままこれに激突したものと推認するのが相当であり、他に右認定を左右するに足りる証拠はない。

二本件ガラス戸等の設置又は保存の瑕疵について

1  <証拠>によれば、本件ガラス戸等の性状及び用途に関し、以下の事実が認められる。

(一)  本件ガラス戸等は、いずれも幅約九〇センチメートル、高さ約一八〇センチメートルで、アルミサッシによる枠取りがなされ、これに前記のとおり厚さ約五ミリメートルの一枚ガラスがはめ込まれていて、下田市内に設けられた保養所のガラス戸としては標準的なものである。

(二)  右のとおり、本件ガラス戸等に透明な桟のない一枚ガラスを使用したのは、利用客に食事をしながら下田港を一望に見下す景観を楽しんで貰うためであつて、下田市内の他の保養所においても、同様の配慮から食堂に右と同じガラスを使用している例がある。

(三)  本件ガラス戸を含む前記ガラス戸は、すべて引戸になつているが、これは、通風を確保することと掃除の際の掃き出しが主な目的であつて、保養所利用者の出人口として使用されることは本来予定されていないため、通常は施錠されている。

(四)  また、利用客が本件食堂からその南側に面する前記庭に出ることも予定されていないところであつて、本件ガラス戸等の外には履物類は置かれていなかつた。そして、本件保養所では、本件ガラス戸等を開けてスリッパのまま右庭に出る利用客はほとんどいなかつた。

(五)  本件事故以前に、本件ガラス戸等にガラスの存在を利用客に察知させる措置が講じられたことは一度もなかつたが、同事故後は本件ガラス戸等の各中央部にほぼその幅いつぱいに黄褐色のテープが貼られた。

2  ところで、民法七一七条一項にいう工作物の「瑕疵」とは、工作物が通常有すべき安全性を欠いていることをいうが、一般に工作物はその本来の用法に即して利用されることを前提としているものであるから、当該工作物の占有者又は所有者は、およそ想像しうるあらゆる危険の発生を防止しうべきことまで想定して危険防止の設備をする必要はなく、当該工作物の構造、用途、場所的環境及び利用状況等諸般の事情を総合考慮したうえ、具体的に通常予想される危険の発生を防止するに足るもので必要かつ十分であると言うべきであり、利用者の通常の用法に即しない行動の結果生じた事故については占有者又は所有者としての責任を負うべき理由はない。

これを本件についてみると、本件ガラス戸等は、前記認定のとおり、主として、本件保養所の利用客に本件食堂からの景観を楽しんでもらうために設置されたものであつて、人が頻繁に出入する建物部分に常時開閉されるものとして設置されたものではなく、また、その設置場所が本件食堂であることから、その近辺において児童や幼児が遊んだり、走り廻つたりするという事態も通常予測されるところではないのであるから、本件ガラス戸等の如きガラス戸はその性状からみて、その通常の用法に即して使用する限り人の生命、身体に対し危険を及ぼすものではないものというべきところ、本件事故は前記認定のとおり、原告吉栄において本件保養所の利用客の例に反して本件食堂からその南側部分に在る庭にスリッパのまま降り立つたことを誘因とし、かつ、謙光が本件食堂内を勢良く本件ガラス戸に向つて走行したことを直接の原因とするもの、換言すれば、本件保養所の所有者たる被告にとつて通常予測することができない要因が偶然に重なり合つた結果起つたものというべきである。そうとすると、被告が、本件事故当時、同事故の発生を防止するために、本件ガラス戸等にテープを貼り付けるなどして、人にガラスの存在を察知させる措置を講じていなかつたとしても、本件ガラス戸等の設置又は保存に瑕疵があつたということはできない。

なお、原告は、本件事故以前に本件ガラス戸等に衝突する利用客が相当数いた旨供述し、原告吉栄本人の供述中には、同原告が同事故後の昭和五七年一月一〇日本件保養所を再び訪れた際、同保養所の管理人の口から、本件事故前にも大人の利用客が本件ガラス戸等に頭をぶつけるという事故がちよくちよく起つたとの話を聞いた旨の供述部分が存するけれども、右供述部分の信ぴよう性の判断は別にして、仮に右管理人がそのような発言をしたとしても、右の発言のみによつて、本件事故以前にも起つたという事故の原因、態様、頻度等は必ずしも明らかでなく、右程度の発言を根拠として本件事故発生時の本件ガラス戸等の設置又は管理に瑕疵があつたと断ずることはできない。のみならず、原告吉栄本人の右供述部分は、証人山下博史、同森賢司の各証言と対比するときは、にわかに措信し難いといわなければならない。

また、被告が本件事故後本件ガラス戸等の各中央部にほぼその幅いつぱいに黄褐色のテープが貼りつけられたことは前記認定のとおりであるけれども、証人森賢司の証言によれば、これは本件事故のような事故が現実に発生したという経験に照らして、被告が講じた措置であつて、かかる事実があるからといつて本件事故当時本件ガラス戸等の設置又は保存に瑕疵がなかつたとの前記認定の妨げにはならない。

三以上の事実によれば、原告らの本訴請求はその余の点について判断するまでもなくいずれも理由がないからこれを棄却し、訴訟費用の負担につき民訴法八九条、九三条一項本文を適用して主文のとおり判決する。

(篠田省二 小池信行 寺内保恵)

別紙図面<省略>

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例